「未来へ向かっていけば道は開ける」

夕刊フジ 2010年(平成22年)11月18日

子供たちの希望の懸け橋

2人は水も食事も与えられないまま閉じこめられた。ドアが開かないのは非力な子供だからではなく、ドアの裏側に粘着テープが張られていたためだ。母親は帰ってこない。泣き叫ぶ声は、そのうち聞こえなくなった。

この夏、大阪のマンションで3歳と1歳の姉弟が死んだ。ホストに入れあげて育児放楽した23歳の母親はその後、殺人容疑で逮捕された。

「他人事ではないなって思った。オレたちも同じようなもんだったから」

6歳のとき、両親が接し、年子の弟と親戚の家に預けられた。

何かにつけては家主の「おじさん」から殴られた。トイレは「使うな」とドアノブを鉢金で縛られ、我慢できずに弟が粗相をすると「兄の責任」とこぶしが飛んだ。食事もほとんど食べさせてもらえない。近くの川でザリガニを捕って口にした。

幼少期、虐待受け施設に

ある日、弟が栄養失調で倒れたことで虐待がしれ、兄弟は地元・福岡の児童養護施設に保護された。「暖かい毛布と暖かい飯。これで死ななくてすむと思った」

いまでも思い出すたびに腹の底がうずく、忘れようにも消えない。施設暮らしのなかで、この世にボクシングがあることを知ったからだ。

「食堂のテレビで初めて見たとき、雷に打たれたような感じになった。オレも将来、絶対ここに立ってやろう、と」

小学3年になったとき、迎えにきた母親と上京。高校を卒業すると、真っ先にジムの門を叩いた。

4度の世界戦敗退も

20歳でデビューし、破竹の勢いで連勝を重ねた。2年後の1993年に日本ライト級チャンピオン、3年後には東洋太平洋ライト級チャンピンになった。世界タイトルにもっとも近い男ー。ファンの誰もがこう呼んだ。

だが、4度挑んだ世界戦はいずれも敗退。2度の判定に、TKOとKO負け。TROだった一戦では初回に王者から2度のダウンを奪い、ほぼべルトを手中にしたが、右まぶたの出血が止まらず涙をのんだ。いつも、女神はほほえまなかった。

「運が悪かったという人もいる。でも、本当に運が悪かったら失明してボクシングができなくなっていたかもしれない。施設の子供たちの中にも、この境遇は運命だからって、初めから将来をあきらめる子がいる。でも、自分で未来に立ち向かっていけば、オレのように道を切り開けるんですよ。誰だって」

ジム開き若き才能を育てる

引退後、全国の施設を回り始めた。

「ボクシングのグローブを持たせると、ムキになって向かってくる子、大人の姿におびえる子、愛に飢えて飛び込んでくる子..。いろいろいます。大人たちは君たちにひどいことをした。でも、オレたちのように手を差し伸べる大人もいるんだよって。前向きに生きていくきっかけをつくってあげたいんですよね」

先日、子供たちにあるエピソードを明かした。現役時代、幸せな家庭を持てたこと。でも2度、子供に先立たれたこと。

「最初は男の子で死産。2度目は女の子で、オレが練習中に妻が子宮破裂して…・

名前は京志郎と夢結(ゆい)。夢結は妻に抱かれて息を引き取りました。虐待を受けて、施設に育って、世界タイトルも取れなくて、そして子供まで・・」このときばかりは神を呪った。それでも、いまこうして立ち上がっているー子供たちに希望を持ってもらいたい一心で語りかけた。

待望の子やっと授かる

何度も何度もへこたれない姿に、さすがの神も折れたのだろう。2年前、待望の子を授かった。名前は明沙音(あさの)。女の子だ。

今年8月8日、東京・西日暮里にSRSボクシングジムを開いた。SRSはスカイハイ・リングスの略で「天高く輪を広げて」との願いを込めた。施設の子供たちにも門を開き、次代の若き才能を育てている。ジム開きにあえて選んだ末広がりの日、西日暮里の空は、いつになく青く澄んでいた。

さかもと・ひろゆき 1970年12月30日生まれ、39歳。福岡県出身。幼少期、親戚の家で虐待を受け、地元の児童養護施設「和白青松園」で8歳まで過ごす。89年、埼玉県の小松原高卒後、角海老宝石ジム入門。東洋太平洋ライト級チャンピオンなどに輝く。2000年3月の3度目の世界戦、WBA世界ライト級王者(ヒルベルト・セラノ)戦では右まぶたの負傷で5回TKO負け=写真。セラノを倒して王者となった畑山隆則と同年11月、世界戦を行うも、10回KOで敗れた。この一戦は「年間最高試合」に選ばれた。07年1月に引退。通算47戦39勝(29KO)7敗1分。00年「こころの青空基金」を設立、児童養護施設の支援に尽力している。