愚痴を言いながら人生を送りたくない

元東洋太平洋ライト級チャンピオン
SRSボクシングジム会長
坂本博之

写真・田渕睦深

世界王座に手が届く寸前までいった「平成のKOキング」坂本博之。プロボクサーを引退して、児童養護施設の子どもたちとの交流を始めた。

自身も虐待に遭い、施設で育った坂本は、子どもの思いを受け止め、「愚痴を言って生きてもつまらない、自分次第で運命は切り開ける」と語る。

不利な条件を乗り越え続けてきた坂本の強さは、どこから来るのか。

川でザリガニを捕っては、火にあぶって飢えをしのいだ。

7月初旬、静岡県のとある児童養護施設。ボクシンググロープをはめた子ともたちが、大人の構えるミットに打ち込んでいた。喜々として興じる姿が目立つなかに、たまった何かを絞り出すかのように、笑顔一つ見せずにバンチを連打する男の子の姿があった。「とうした!お前の怒りは、そんなもんじゃないだろう!」。そう発破をかけられ、歯を食いしばって拳を継り出す彼の眼は、潤んでいるようだった。

汗だくになって子どもたちを鼓舞し、パンチを受け止めるのは、元プロボクサーの坂本博之。

ライト級で日本、次いで東洋太平洋チャンピオンに輝き、4度の世界タイトル戦はいずれも情敗したが、打たれても前に出るボクシングスタイルは、多くのファンの心をつかんだ。

3年前に引退した坂本は今、全国の児童養護施設を回っている。不遇な環境にいる子どもたちの思いを、ボクシングを通じて吐き出させ、受け止め、そして「自分の運命を嘆いて、愚痴を言いながら生きるなんてつまらないよ。一生懸命やれば、自分次第で運命は切り開けるんだ」と語りかける。それは、幼少期に虐待を受けて施設で育ちながら、ボクシングに打ち込んで多くのものを得てきた坂本の39年間を、包みにわず伝えることでもある。

「両親の離婚で、小学校1年生の時に弟と2人で知人宅に預けられました。食事は与えてもらえず。一日、学校の給食1食だけ。夜は玄関口にバスタオルー枚を敷いて寝て、トイレは「水道代がもったいない』と言われて、外で用を足しました。不満を言うと、顔の形が変わるほど殴られた。弟を死なせるわけにはいかない。俺がなんとかしてやると思っていました。休みの日は給食もないから、その日どうやって食べるかが先決で、川でザリガニを、空き地でトカゲを捕っては、火にあぶって飢えをしのいだ」

そんな毎日が1年半も続いた。栄養失賞で個れた弟が学校に運び込まれたことをきっかけにして調査が入り、坂本兄弟は福岡市の児童養護施設・和白青松園に保護された。

「ご飯は3食、あったかい布団もある。普通の生活ができるようになったある時、食堂のテレビにボクシングの試合が映っていた。男と男がグロープつけて、まぶしいリングでやりあう姿に、強烈な光を感じました。俺もブラウン管の向こうに行きたい、そう思いました」

とはいえ、母に引き取られて施設を出た後も生活保護を受けながら弟と二人暮らしをし、一日500円で生結するために賞味期限切れの弁当を探す毎日。今日のことを考えるのが精いっぱいで、当然ボクシングをする金などなく、坂本は鬱屈とした思いをケンカで発散することしかできなかった。高校を卒業してようやく、プロボクサーを目指してジムに入る。目標は世界チャンピオン。食堂のテレビで見た。まぶしいリングに立ちたいと思っていた。

ボクシング界の頂点を目新すレベルになると、アマチュアで実験を積み、大きなジムから小道いをもらいながら練習を重ね。高校卒業後にそのジムに入るというエリートコースを歩む者も少なくないそうだ。坂本は、高校時代は経験すらなく、入ったジムも弱小と言っていい。さらには、華麗なフットワークを武器ににパンチを当てて得点を稼ぐのではなく、相手と殴り合うようなボクシングスタイル。上にあがるには有利とは言えない条件が揃っていた。

「だから、猛烈に練習しました。新人王を獲る前、同じくエントリーしている他の選手の練習を見たトレーナーは「坂本が絶対に(新人王を)獲る」と言っていたし、僕自身、周りが「あいつはすごい練習をする」って噂していることは知っていました」

「そうやったのは、「たら・れば」を言いたくないからです。小さい頃から、すべて自分に責任があると思っていたし、その時々をどう生きるかを考えてやってきた。先のプランを立てていないわけじゃないけど、人間ってプランとおりいかないとジレンマに陥る。その時「もっといい環境だったら」って言うのは嫌だった」

常に飢えや喪失と背中合わせで生きる毎日では、愚痴も「たら・れば」も、何の解決にもならない。しかも坂本は、人間不信の裏返しだったかもしれないが、自分しか頼れないと思っていた。こうした気持ちは坂本の原点なのだろうが、自分で自分の運命を切り開こうという強さは、そんなにも継続できるものなのか。

熱い応援をしてくれるから、僕も熱い試合ができる。

人にはある、自分にはない。万事そんな状況だったために、坂本には自分の力でそれを克服ようとする飢餓感のようなものが、いつも気「ちの底のほうにあっただろうし、負けず嫌いあった。加えて、激しい練習が結果をもたらすという好循環も継続の支えとなった。そして何より、自分に期待してくれる人がいると実感できたことが大きかったと坂本は語る。

「自分だけの力では、減量を超えてリングにあがることはできません。トレーナーやジムの人はもちろん、たくさんのファンが僕を応援してくれた。愛情をくれたんです。一生懸命な僕を見て、私も頑張ろうと感じた人が熱い応援をしてくれる。その応援があるから、僕も熱い試合ができる。こんな、いろんな人とのつながりの出発点が、和白青松園だったんです」

新人王を獲った1993年に「和白はまだあるのかな」とふらっと立ち寄り、園に暮らす子どもたちとの交流が始まった。園出身のヒーローを子どもたちは応援し、厚紙でつくったチャンピオンベルトを坂本にプレゼントした。坂本もお菓子を段ボール箱いっぱいに詰めて園を何度も訪れ、子どもたちを試合にも招いた。

だから、「坂本は、園の子どもたちのために世界チャンピオンになりたかったんじゃないかな」と言う人もいる。本当だろうか。

「ボクシングは自分を表現するもので、人のためにやったんじゃない。でも、親がいないとかそういうことで、人間が決まるわけじゃないってやってきた僕の生きざまを見て、何かを感じ取ってほしいと思ってきました」

その延長線上に、坂本の今の活動がある。これまでに回った児童養護施設は30以上。施設にいる子どもは全国で3万人超、その半分以上が虐待を受けた経験を持つ。

「腕にたばこの火の跡がいくつもある子もいました。そんな子が、悲しみや怒りをぶつけるようにミットを打ってくる。きゅっと抱きしめてあげたくなります。お前たちを傷つけたのは大人だけど、受け止めてあげられる大人もいるんだと伝えたい。「そんなの、難しいよ」と言う人はいます。それでも、やらないあんたよりも、まずはやっている僕たちがいるんだ」

坂本は口上手ではないが、嘘のない人柄が滲み、そして弱い人を放っておけない優しさに溢れている。静岡の施設を訪れた際も、塞ぎこんでいた子に真っ先に声をかけたのが坂本だった。

坂本の鞄から携帯電話がたくさん出てきたのに驚いて用途を問うと、「訪問した施設の子ともたちからの、悩みや相談を受けるためのものです」。子どもたちが心を開くのは、坂本が施設出身だからだけではなく、むしろ一生懸命に試実に、自分と接してくれる、そして前を向かせてくれる人だと感じるからだと思う。

8月8日、坂本は東京・西日暮里にSRSボクシングジムを開いた。児童養護施設を出てからブロボクサーを目指す若者が、お金がないために夢を絶たれることのないよう、資金面でもバックアップしながらボクシングを教える。ゆくゆくは、ボクシングという枠を超えて、恵まれない環境から社会に巣立とうとする子どもたちを支援する拠点とすることが夢だ。

境遇を愚痴らず、自分で切り聞く強さ。人を信じられなかった青年が、期待されるという愛をもらったことで、それはより強いものになった。独りでは運命と闘う自がない普通の人でも、誰かが伴走してくれるなら、頑張れるかもしれない。坂本がすごいのは、自分の経験ともらった愛を次代につなぎ、その「誰か」になろうとしているところにある。(文中敬称略)

〔さかもと・ひろゆき〕1970年生まれ。91年にブロデビューし、日本、次いで東洋太平洋ライト級チャンピオン。

世界タイトル戦は4度挑んだが、いずれも惜敗。47戦39曲(29KO)の戦績を残して2007年に引退。まもなく児童養護施設を回る活動を開始し、今年8月にSRSボクシングジム(03-6825-8800)を開いた。