特別企画 坂本博之氏に聞く

社会的養護とファミリーホーム Vol.20

SPSボクシングジム会長・こころの青空基金~SES~代表
特別企画 坂本博之氏に聞く

聞き手・川名はつ子(早稲田大学人間科学学術院推教授・本誌編集委員) まとめ●総集部

ご飯も食べさせてもらえない日々

幼い時に両親が離婚して、僕と弟は「鞍手乳児院」に預けられました。そこに1年半いて、その後、児童養護施設「誠慈学園」に預けられましたが、1年近く経った頃、おふくろが迎えに来てくれました。おふくろが再婚したため、僕と弟は義父と4人で暮らし始めましたが、妹が生まれ、母親が仕事を始めるなどの事情で、僕と弟は知人の家に預けられてしまいました。

その家で、僕たちはご飯もろくに食べさせてもらえず、布団で寝ることもできず、玄関先でバスタオル1枚で寝ていました。僕たちが水洗トイレを使うと水道代がもったいないと言って、僕たちが使えないようにトイレも鍵を閉められてしまい、用を足す時は外に行かなければなりませんでした。弟は小学校の1年生だったけれど不安定な精神状態だったためおねしょをしてしまう。すると、「玄関先で、臭いやろうが!」と、ばちーんと殴られるんです。その上、「おまえら罰だ」と公聞の裏の方に連れていかれて、石の上に正座させられました。足のすねから血が出ても、1時間経っても2時間経っても止めさせてくれませんでした。一事が万事そんなふうで、僕たちは何かにつけて殴られていました。

そのうち返所の人たちが何かおかしいと気がつき、警察に通報したんです。今の時代だったら講査が入ってすぐに保護されますが、その時は厳重注意があっただけで、僕たちはまた家に帰されてしまいました。

コインの表と裏は、人生の光と影

負の人生があって、今の自分がある

自分で切り開いたから、今がある

語ること、受け入れることで、永遠に生き続ける

一日の食事は学校の給食だけで、学校がない日は川でザリガニを獲って食べたりしました。弟は栄養失調で、学校に行く途中で倒れることもありました。でも、今、家に戻ってもまた殴られるだけだと思って、無理して学校に連れていきました。あまりに腹が減っていて、1時間目が始まる前にご飯を食べさせてもらったこともありましたね。

僕も拒食症になってだんだん食事を受け付けなくなり給食を食べても5時間目が始まる前に戻してしまう。そんな状態だから担任もおかしいと思ったんでしょう。ようやく学校側が僕たち兄弟の異変に気付いたわけです。

学校の通報により、僕たちは児童相談所に一時保護されました。その後、児童養護施設の和白龍松園に入りましたが。その時の写真を見ると、僕は眼帯をはめているんですよ。

日が潰れるんじゃないかと思うほど目のところを殴られて化渡していたんですね。僕が8歳の時でした。

母に引き取られて東京に

おふくろにしてみると、僕たちを知人に預けたのは一時的なつもりだったようですが、預けた家に子どもたちはいない。施設にいることを、おふくろは知らなかったようでした。

9歳になった時におふくろが施設に迎えに来てくれて、しばらくしてからおふくろに連れられて上京しました。10歳の時です。東京では、風呂なしのアパート一間で暮らしましたが、布団で寝られ、トイレも共同トイレだったけれど気兼ねなく使え、幸せでしたよ。アパートの下が鶏肉屋だったので、いつも余った鶏肉をもらいに行くんですよ。それをから揚げにして食べる。だから毎日毎日から揚げでしたね。おふくろは夜の仕事をしていたから、僕たちが学校から帰ると同時に仕事に行く。それで、学校から帰ったらから揚げを食べたりカップラーメンを食べたりして凌いでいました。それでも辛い時期のことを思うと、本当に幸せでしたね。

その反対に、東京に来て一番嫌だった時期があります。中学の時です。みんなは学校が終わって家に帰ったら、家族でご飯を食べてテレビを観て過ごしていることがわかってきます。そして翌日、学校でそのテレビの話をしているのです。小学生の時にもわかっていたことでしたが、家でやり繰りをしている自分の境遇に、だんだん腹が立ってきて、ひがむような気持ちでした。相通じる友だちもできませんでした。

たった一度のおやじとの出会い

おやじには、中1の時に初めて会いました。田舎の盆踊りに行った時に、おふくろが引き合わせてくれたんですよ。「あんたのお父さんよ」って。ビックファーザーじゃないけど、何かすごく強そうな人だなっていう印象でした。僕も、中学になった時は体が大きかったから、おやじに腕相撲を申し込んだりしましてね。勝てると思ったんですけど、勝てなかった。本当に強いおやじだなと思って誇らしかったですね。そういう出会いをしたけれど、会ったのはそれが最後になってしまいました。1983年、僕が13歳の時です。

それから15年後の1998年に、突然、おやじから電話がありました。おやじは、僕たち兄弟がこういう生活をしてきたことを、長