日本経済新聞. 2010年(平成22年)10月24日(日曜日)社会人 第94話
もう一度はばたく
拳の対話逆境の子に夢
世界王座に4度挑んだボクシング元東洋太平洋ライト級王者、坂本博之(さかもと・ひろゆき、39)。強烈な拳で、1991年デビュー戦以来、KO勝ちを連ねた。
しかし、硬軟自在の技巧でポイントを重ねるのが現代ボクシングの潮流。それに背を向けたためか、頂点に立つ夢は、いつも目前でやぶれた。
施設暮らし経験
2007年1月、東京・後楽園ホールでの引退試合。チケットは2日で完売した。アナウンサーは「世界王者の経験がなく、これほど支持されたボクサーがいたでしょうか」と伝えた。
打たれても前に出る。琴線に触れる愚直なファイトは、その生い立ちに負うところが大きい。幼少のころ大人の拳で虐待を受け、弟と福岡市の児童養護施設で暮らした過去を持つ。
「ぼくにとってボクシングはスポーツではなかった。KOするか、されのるか」。少年時代の喪失感を乗り越え、リングで己の強さを誇示すること。困難な境遇の施設の子供たちに夢を追う姿を見せること。現役時代、それが坂本にとって戦う意味だった。
坂本は今7年8月、所属ジムのトレーナーを辞し、独立。東京都荒川区に自前のジムを構えた。「児童産護施設出身の若者を支え、共に世界を目指す」新たな夢に向かい、後進の指導に乗り出したのだ。
ジムでは、坂本を慕って上京した練習生、若松一幸(わかまつ・かずゆき、18)が師のミットを目がけ一心不乱に拳をたたき込んでいた。
若松にとって、高校を退学し、中ぶらりんだった時期に転機は訪れた。身を寄せていた鹿児島市の児童養護施設の職員が1本のビデオを勧めた。2000年10月の世界ボクシング協会(WBA)ライト級王者、畑山隆則と坂本のタイトル戦。
技術に勝る畑山は戦前の予想に反し、初回から足を止め坂本と打ち合う。壮絶な応酬が続いた10回。坂本は王者の右を被弾、マットに沈んだ。同年の最優秀試合に選ばれ、今もファンの間で話り継がれる名勝負だ。
「最良」引き出す
「オレは何をひねくれていたんだろう。目標はこれしかない」。若松は思い定めた。「この人なら絶対に自分を裏切らない」と信じ、同じ施設の先輩とともに坂本の懐に飛び込んだ。2人は飲食店で働きながら、プロデビューに向け汗を流す。
しかし、坂本は、ジム開設の目的は、プロボクサー養成だけではないと言う。「プロにならなくてもいい。彼らの最良のものを引き出してやる場所にしたい」坂本自身がそうだったように、全国約570の児童養護施設で暮らす子供の5割以上が、何らかの虐待を体験している。人を借じられず、周囲の顔色をうかがう。屈折し、荒れる。そんな人生は歩んでほしくない。
施設出身の若者は様々なハンディを負い社会に出る。身近に保証人がいないため、住居を定めるのにも苦労する。坂本は妻とともに、彼らの生活基盤を整える手助けをし、あいさつに始まるマナー、礼状の書き方なども指導する。
「自分はボクシングを通じ、周囲に支えられ、ファンに愛される幸せを知った」。そのことが道を踏み外さずに生きるよすがになった。施設出身の若者と拳で対話し、人生の一時期、彼らと伴走する。このジムに託す裏の願いだ。
「博之兄さん、がんばって」。ジムの壁には、かつて坂本が暮らした施設の子供らの寄せ出きがあった。新たな門出を祝福する心のこもった言葉があふれている。
坂本は全国の施設を訪ね、子供たちを励ます地道な活動も続けている。彼が立ち上げた基金への浄財に支えられて。
「勝者がすべてを手にする」といわれるボクシングの世界。栄光のベルトを巻く現役時代の夢はやぶれた。だが「良き取者」であった坂本は、自分だからこそ挑むことができる確かな道を歩み始めた。
=敬称略(和歌山章彦)