己の美学を貫いた平成のKOキング”

Good Old Days

歴代名ボクサー列伝

Domestic【国内】

文◎丸山幸  ー  Text by Koichi Maruyama

元東洋太平洋&日本ライト級チャンピオン★角海老宝石

坂本博之

Hiroyuki Sakamoto

己の美学を貫いた平成のKOキング”

「平成のKOキング」「和製デュラン」

ーその異名どおり、坂本博之(全日本パブリック→角海老宝石勝又→角海老宝石)はKO勝ちにこだわり続けたボクサーだった。後退を知らないスタイルで日本ライト級王座と東洋太平洋同級王座を獲得。世界王座には4度挑みながら、頂点を極めることができなかった悲運の男だったが、誰よりもファンの心に残る試合を見せ続けた稀代のファイターだった。

坂本の幼少時代のことはよく知られている。

1970年12月30日、福岡県田川市で生まれた坂本は幼いころ、両親が離婚したために小学校に上がると親戚のもとに預けられる。その家では食べ物を与えられず、8歳で福岡県の養護施設「和白青松園」に入園するまで、1日に口にできるのは学校の給食だけという悲修な毎日を送るのだ。その施設で見たロベルト・デュラン(パナマ)の試合が後の坂本を形成することになるのである。

10歳で東京・台東区に転居した坂本は高校卒業後、ジムに入門。91年暮れにデビューすると93年12月、日本ライト級王者のリック吉村(石川)を9回TKOにり日本の頂点に。95年5月、世界への布石として組まれた元WBA世界スーパーライト級王者ファン・マルチン・コッジ(アルゼンチン)戦で不覚を取るが、96年3月、東洋太平洋ライト級王座を獲得して復活。その彼が、WBC世界ライト級王者のスチーブ・ジョンストン(アメリカ)への挑戦に漕ぎ着けたのは97年7月だった。結果は強打が空転し、1ー2の判定負け。

98年8月のWBC世界ライト級王者セサール・バサン(メキシコ)戦も失った坂本に、「3度日」がやってきたのは2000年3月。相手はWBA王者ヒルベルト・セラノ(べネズエラ)だ。このセラノから坂本は初回に2度のダウンを奪うのである。が、2回、セラノの左で右目を負傷。「でも、5回にボディを攻撃するとセラノが悲鳴を上げてね。もう少しでKOできる。そういう感触を得た矢先だった。主審がまた割って入って、セラノのTKO勝ちを宜言したんだ」(坂本)。

そのセラノにストップ勝ちした畑山隆則(横浜光)への挑戦が00年10月に決定。試合が始まって坂本はこう感じたという。「畑山程度のパンチなら被弾も構わず攻めれば勝てる」。この坂本のパンチを畑山はステップで交わす一方で、ショートをコツコツと浴びせていった。そして、坂本が倒れたのは10回だった。

坂本が振り返って言う。「畑山は自分を知っていた。だから俺のパンチを必死にさばこうとした。それでも俺はパンチを振り続けた。そして負けた」。畑山のような巧みな駆け引きもボクシングの醍酸味である。しかし、坂本はすべての試合で力のボクシングを押し通したのだった。

腰の痛みを感じ始めていた彼が椎間板ヘルニアの手術に踏み切ったのは、02年10月、東洋太平洋スーパーライト級王者の佐竹ー(明石)に12回TKO負けした後だった。その2年7ヵ月後、リングに復帰するが、元の体には戻らず、07年1月の試合を最後に47戦39勝(29K0) 7敗1分の記録を残して熱いプロ人生に終止符を打った。

10年8月に「SRSジム」をオープン。選手育成に励む一方で、全国の児童擁護施設を巡り支援活動を続けている。「今、振り返ってもプロ人生という俺の人生の第1章は間違っていなかったと思う」と坂本は言う。そのとおりだ。世界王座こそ獲得できなかったが、坂本が我々に示したもの。それは真っすぐに生きることだった。自分の美学をまっとうすることだった。だからこそ、我々は坂本のボクシングに、その生き方に深く感動したのである。

←坂本は全日本新人王に輝いた10ヵ月後の

1993年12月13日、リック吉村(石川)を9回

TKOに下し、日本ライト級タイトルを獲得した