東京新聞 2007年(平成19年)2月17日(土曜日)
スポーツの滴 ー 佐藤 次郎 ー
限界までやり尽くした
最後の戦いは7回負傷引き分けで終わった。17歳の若手に激しく攻められ、36歳の大ベテランは血まみれで引退試合のリングを下りた。
だが、それからひと月半を過ごした坂本博之の顔は晴れ晴れとしていた。さりげないが自信に満ちた声音で未練も悔いもないと言い切ったのには、もちろんそれだけの理由がある。左目の上に澈闘の傷あとを残したままの男には、ファイターとして自分がやるべきことのすべてを、間違いなくやり尽くしたという手ごたえがあったのだ。
5年間のボクサー人生で47戦39勝7敗1分けの成績を残した。日本と東洋太平洋の王座につき、世界タイトルにもあと一歩まで迫った。打たれても前に出て攻め続けるスタイルは、世界王者以上の人気を集めた。なのに、その終盤で苦しい試合が続いたのは、深刻な腰の故障との闘いのためだ。引退を勧める声は何年も前から出ていた。
ただ、その苦闘があったからこそ、何の迷いもなく、ピリオドを打てたのだと坂本は思っている。
「限界まで全部やり尽くしました。1パーセントの可能性も残さなかった。だから迷わずにグローブを置くことができたんです」
6年と少し前に4度目の世界挑戦をした後、椎間板ヘルニアと診断され、入院2か月の大手術を受けた。2年7か月の空白を乗り越えて再起し、そこから4試合を戦った。初めて経験するトレーニングにも取り組んだ。たとえ苦戦が目に見えていようと、この男は「1パーセントの可能性」を試し尽くすまで、絶対にリングを下りようとはしなかったのである。
すべてをやり尽くすと言うのは簡単だ。とはいえ、たいがいはどこかで妥協し、いくばくかの悔いが残ることになる。となれば、これは実に稀有な例と言わねばならない。
坂本博之は険しい道のりを承知のうえで、最後まで妥協を排した。苦渋の最終章は、1ミリのすきもなく円を閉じるために、どうしても必要な年月だったのだろう。
そこで第二の人生にも迷いはない。もちろんボクシングとは離れず、まずはトレーナー修業に入るが、その一方にはもうひとつの計画がある。
「人間の持っている力強さ、それをもたらす熱さ。そうしたものを子どもたちに伝えていきたい。一歩でも半歩でも前に進む強さや熱を伝えられたら、と」
たくさんの学校を訪ねて、子どもたちに話をしたいと考えている。各地に拠点もつくりたい。少年時代に暮らした福岡の児童養護施設「和白青松園」もそのひとつになる。
「これがライフワークだ」というのが、リングを下りた坂本の新たな確借である。
この1か月は引退のあいさつ回りに忙しかった。今月末からはアメリカに指導の勉強に行く。突進し続けた男は、相変わらず立ち止まってはいないようだ。
(編集委員兼論説委員)